三万円のディナーより、10万円のバッグより、欲しかったもの。
カチ、カチ、カチ。
静まり返ったリビングに、
時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。
夜の11時を回っている。
いつもなら、もうベッドに入っている時間だ。
なのに、妻はまだ、そこにいた。
クローゼットの奥に頭を突っ込み、
引き出しを何度も引いては閉め、
棚の上の箱を一つずつ下ろしている。
その背中が、なんだかいつもと違っていた。
小さくて、強張っていて、張り詰めた糸のようだった。
「……ねえ、何探してるの?」
声をかけると、妻の肩がビクッと跳ねた。
振り返った彼女の目は、少し泳いでいた。
「あ、ううん。なんでもないの。ちょっとね、片付けというか……」
そう言って、無理に作ったような歪な笑顔を浮かべる。
はぐらかされた。
明らかに「なんでもない」わけがない。
ご飯も食べず、髪を振り乱して、
とりつかれたように家中の棚をひっくり返している。
夜が更けても、彼女の手は止まらなかった。
カサカサと書類が擦れる音。
クローゼットの扉が閉まる鈍い音。
その音が聞こえるたびに、僕の胸の奥にも、
冷たいインクがじわりと滲むような不安が広がっていく。
何か、とてつもない悪いことが起きているんじゃないか。
彼女は一体、何を抱え込んでいるんだろう。
結局、その夜はそれ以上何も聞き出せないまま、
重苦しい空気の中で眠りについた。
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、
驚くほど白くて、残酷なほどいつも通りだった。
キッチンの前に立つ妻に、そっと近づく。
彼女の目の下には、うっすらとクマができていた。
一晩中、まともに眠れなかったのだろう。
「……昨日の探し物、見つかった?」
僕の問いかけに、妻は小さく首を横に振った。
「ううん。見つかってない……」
その声は、今にも消えてしまいそうなくらい細かった。
胸が締め付けられる。
これ以上、一人で抱え込ませるわけにはいかない。
「何か、僕に言ってもいい? 一緒に探すから」
一歩踏み込んで、まっすぐに彼女の目を見た。
すると、妻の瞳が揺れた。
溢れそうになる涙を必死で堪えるように、唇を噛み締めている。
そして、本当に、
本当に申し訳なさそうな顔をして、
消え入りそうな声で、こう言った。
「……通帳を、まとめてたケースがないの」
「どこをどう探しても、見つからないの」
「昨日、何時間も探したのに……っ」
その瞬間、彼女の肩が小さく震えた。
世界が止まったかのような、深い沈黙。
彼女の顔は、これまでに見たことがないくらい暗く、
まるで世界中の罪を一人で背負ってしまったかのように、申し訳なさに満ちていた。
「わかった。一緒に探そう」
僕は努めて明るい声を出し、彼女の肩をぽん、と叩いた。
そこから、二人だけの必死の捜索が始まった。
制限時間は、ない。だけど、一刻も早くこの重空気から抜け出したかった。
ソファの隙間に手を突っ込み、
テレビ台の裏の埃を払い、
昨日妻が何度も見たはずの引き出しを、僕の目で、もう一度引く。
「最後に見たの、いつだっけ?」
「使う予定、近々あった?」
「もし見つからなかったら、とりあえず通帳停めれば大丈夫だからさ」
「いくら入ってるか、だいたい覚えてる?」
そんな会話を交わしながら、1時間くらいが経った。
具体的な話をすることで、妻のパニックを少しでも和らげたかった。
通帳がなくなっても、命まで取られるわけじゃない。大丈夫だ。
言葉の端々に「大丈夫」を込めて、僕は家の中を這い回った。
「……あ」
ふと、視線が止まった。
本当に、まさか、そんなところにあるわけがない。
そう思うような、意外な隙間。
普段は絶対に書類なんて入れない、リビングの飾り棚の、小さなカゴの裏側。
手を伸ばし、奥にあったものをつまみ上げる。
見覚えのある、革製のケース。
「……これ?」
僕がそれ掲げた瞬間、
妻の時が、一気に動き出した。
「あ……っ!」
彼女の口から、引き裂かれたような悲鳴に近い声が漏れた。
駆け寄ってきた彼女は、僕の手からケースをひったくるように受け取り、
胸にぎゅっと抱きしめた。
「あった……よかった……あったぁ……」
その場にへたり込み、
ボロボロと大粒の涙を流す妻。
張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れたのだ。
それを見て、僕は、心の底からホッとした。
お腹の底に溜まっていた冷たい塊が、一瞬で溶けていくような感覚だった。
そして、激しく泣き崩れながらも、
これ以上ないほど安心した表情を浮かべる妻の顔を見て、
僕は、もう一度、心の底からホッとしたんだ。
その瞬間だった。
胸の奥から、温かいものが、じわあっと溢れてきたのは。
ああ。
幸せって、こういうことなんだ。
世間が言う「幸せ」の形なんて、どうでもいい。
一晩で何万円もするような、高級なディナーじゃなくていい。
肩に掛けるだけで誇らしくなれる、10万円のブランドバッグじゃなくていい。
週末に家族で行く、きらきらしたキャンプじゃなくていい。
そんな贅沢なエンタメの中に、僕の本当の幸せはなかった。
僕にとっての幸せは。
大切な人の頭上に、突然降り注ぐ大雨。
その冷たい雨から、1秒でも早く、
傘をさして守ってあげること。
不安に怯え、今にも泣き出しそうな家族の、
その「不安」を綺麗に取り除いてあげること。
それこそが、僕の役目であり、
僕がこの人を守るために生きている理由なんだ。
泣き腫らした目で、
「ありがとう」
と微笑む妻の顔を見ながら、僕は誓った。
これからも、君に雨が降るなら、
僕は何度だって、どんなに泥だらけになってでも、
一番大きな傘を持って、君の隣に駆けつけるよ。
ただいま、我が家の小さな平和。
この静かなリビングこそが、僕の、最高の居場所だ。


